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2017/05/11 17:53

美しく、愛しい彼女。

水曜日、首を長くし現場スタッフたちが、内心はらはらしつつも待っていた大切な彼女。
その彼女がトルコから、遠路はるばる私たちの工場にようやく到着しました。

「彼女」とは、私たちが作っている石鹸のもっとも大切な主原料であるオリーブオイル。
工業用の精製オイルではなく、食用の極上エクストラバージン・オリーブオイルです。

彼女の生まれ故郷はトルコのエーゲ海沿岸にあるアダテペ。
地母神キュベレーが住まうイダ山に抱かれるようにして、その名「アダ」のとおり空中の島のようにぽつんと盛り上がった丘にある村。(アダとはトルコ語で島、テペは丘です)。
その周辺は、この特別な場所に相応しく、アリストテレスも教鞭をふるった小さなポリス・アソス、「イーリアス」や三女神の審判で有名なパリスが王子であったトロイ、聖母マリア昇天の地でありアルテミス神殿があるエフェソス、エジプトのアレクサンドリア図書館と知の覇権を競い、ベルガマ紙も作り出した古い都ベルガマなどなど、そこはまるでギリシア神話、ヨーロッパ文明の黎明の舞台そのもの。
そしてアダテペの丘から眺めるエーゲ海の上には、ギリシア領のレスボス島が見え、今でもアダテペの麓の港に市が立つ日には、新鮮で美味しく手頃な値段の食糧を買いに、ギリシアの人たちが船で買い出しに国境を越えて来ます。

このように彼女の生まれた場所はトルコでありながら、随分ギリシアの香りが色濃い場所です。実際、アダテペ村の石造りの家々の様式も殆どが200年程前に建築されたギリシア様式なのです。
ではなぜアダテペ村が、トルコにありながらこれほどギリシア的な文化の場所なのか? と思えば、しかし村にはモスクもしっかりあり、イスラム教を信仰するトルコ人も暮らしていた事がわかります。アダテペはギリシアの香りとイスラムの香りとが、絶妙のバランスで調和していた世界だったのです。

さて、「だった」「暮らしていた」と過去形で書いたのは、一度アダテペ村は廃村になりかけていたためです。
私が石鹸のための上質なオリーブを求め、初めてアダテペ村を訪れたのは2001年頃のこと。
当時アダテペ村には数世帯の年老いた家族しかおらず、あとは村の美しさや周辺の自然や見事なオリーブ畑に魅せられて「アダテペ村を復興できないか」とやってきた僅かなイスタンブールの人たち(これが私たちの仕事のパートナーです)が居るだけ。しかも着いた日は、春先の冷たい雨の日だったおかげで、無人化して崩れかかった石づくりの家なみは一層寂しく、暗い滅びの美が立ちこめているように思えました。
それでも何かの兆しが感じられる村の復興の取り組みと、無農薬・自然農法、石臼の伝統的な製法で作られたエクストラバージン・オリーブオイルは素晴らしく、こんな大きな困難にどこか楽しそうにさえ見える様子で立ち向かうグループの人たちに魅せられて、私たちは仕事を始め、彼等の取り組みの深まる様子やそれを反映するように村が再生し、まだ人は多いとはいえないものの子供の声さえ聞こえるようになり、退廃美が健やかな生活の美へと変化していくのにこれまで伴走してきました。
この魔法を起こしたオリーブオイルの生産グループの人たちが、地域社会の経済やコミュニティ、環境にも貢献しながらビジネスを進める様は、つくづく見習いたいような素敵な存在、同志として居られる事が誇らしい程です。

このアダテペ村のプロジェクト、オイルの生産グループ「アダテペ・オリーブ・ミュージアム」(http://www.adatepe.com/en/defaultb5c1.html?iId=HILHG)の活動に初期から伴走してきたと私は自負していますが、実はもう一人、もっと長くアダテペの歴史と再生に寄り添ってきた人がいます。
それが冒頭に登場する「彼女」です。
彼女は、アダテペのグループが作るペリドットの芳醇な緑のオリーブオイルそのものであり、同時にオイルのシンボルでもある存在。
そんな彼女の名前を「レフィカ」(Refica)と言います。
レフィカは、アダテペで作られるオリーブオイルのパッケージラベルの中の、オスマン時代の正装をした初々しい面差しの美しいギリシア女性で、19世紀の末アダテペ村に生まれ、実際にそこで暮らしていた人です。
彼女の暮らした当時から20世紀初頭のアダテペは、一つの村の中に、中心の広場には理髪店やカフェもあれば、当時最先端の娯楽であった映画館も3軒あり、村の中に楽しみも必要なものも全てある豊かで賑やかな場所でした。そして注目すべきは、モスクと教会が共存していたこと。ギリシア正教を信仰するギリシア人と、イスラム教を信仰するトルコ人が仲良く暮らしていたのです。
レフィカは若く美しく、オリーブの収穫の季節には、友人たちと懸命に働き、皆を元気づける歌を歌い、美味しい食事を村人に振る舞う、優しい心根の働き者。その存在はアダテペだけでなく近隣の村にも知られる程の、誰からも愛され、若者たちにとっては憧れの存在だったと言います。そんな彼女ですから、もちろん勇敢な素晴らしい恋人がいました。その恋人はトルコ人でした。
けれど、全てが足りて調和している村の美しい日々は、第一次世界大戦によって壊れてしまいます。
ギリシア人のレフィカもその困難から逃れる事はできませんでした。
恋人は兵役によって戦場へ赴きますが、村で様々な民族も宗教も受け止めて暮らしてきた彼にとっては、トルコもギリシアも同胞です。彼にはどこへ銃を向けても同胞を裏切る事になります。ゆえに銃を手に取る事ができなかった彼は戦場を離れ、レフィカは愛する恋人との再会を試みます。
しかしそれは叶う事はなく、一方、レフィカ自身は、ある政治的な有力者と本意ではない結婚を強いられそうになったのです。
すでに村は、ギリシアとトルコの国同士の駆け引きによりかき立てられた、外側からやってきた敵意によってで乱されていました。
彼女はやむなくギリシアへと逃れ、その後、村へ戻ることはありませんでした。

争いの嵐が去った後、村の人々はレフィカの失われた恋や故郷の悲しみを思い、バラードを作りました。
その歌は結婚式や村のお祭りなどでも歌われるようになり、いつしかそれはアダテペ村の伝統になったといいます。
レフィカの恋は、美しく優しく、そして勇敢なトルコとギリシアの若者たちの恋でした。
国と国との間では禍根が残りましたが、アダテペの村では「レフィカ」という思い出によって、悲しい結末ではあったものの、国も宗教を越えた人々の結びつきは保たれたのでした。
しかしそれは今度は、国の復興、経済の発展とともに村を出て都市に人が集まる時代が到来によって、人々が村を去り始めたことで、次第に忘れられていったのです。

そんなレフィカの存在を再び見出したのは、アダテペのオリーブオイルの生産グループでした。
彼等は偶然、廃村になりかけたアダテペを見つけ、一瞬でアダテペ村の美しさに、彼等の言葉によれば「恋に落ちた」のだそうです。もしかして、それもレフィカの導きだったのかもしれません。
そして、フィールドワークの中で、村に残る古老たちからレフィカの歌や物語、村の歴史を聞くなかで、あたかもレフィカに憧れた若者たちのように彼女に魅せられてしまい、周辺の村や町は言わずもがな、なんと果てはレフィカが逃れたというキオス島までその足跡を辿ったのだそうです。

レフィカはギリシアでも変わらず美しい人でした。キオスでは、最初の美人コンテストの受賞者となったこともあり、そのおかげか彼女にまつわるエピソードは思いがけず良く残っていたそうで、グループの人たちの調査では、キオスへ逃れたレフィカは、ギリシアの男性と結婚し穏やかな一生を終えたことまでわかりました。
そこで、もしかするとコンテストの時のポートレートなどだって残っているかもしれないと期待も高まり、面影を追ってわくわくと町中を探しまわったのだそうですが、さすがにそこまでは辿る事はできなかったとか。
それでも何かレフィカの面影を感ずるよすがはないだろうか……? と、彼女の物語にすっかり魅せられて諦めきれないグループのメンバーが訪れたアンティークショップで見つけたのが、レフィカの時代の女性たちの、オスマン様式の正装をした若い女性の絵。それが写真にあるオイルの缶に張られている彼女の絵です。
謂れはわからないものの不思議と心惹かれてしまうその絵を買い、アダテペの村へ戻り、村の古老にレフィカのその後を話しつつ件の絵をみせたところ、おじいさんは「嗚呼! これはレフィカじゃないか! レフィカだよ!」と叫び、村中の、ついには近隣の村のお年寄りまでが集まってきて「ああ、レフィカ! レフィカ! お帰りレフィカ!」と大騒ぎになってしまったのだそうです。

「確かにそうだとしたら、ドラマティックで、ロマンティックで僕らも嬉しいけれどね」とは、ロマンチストでもあるけれど、リアリストでもあるグループのメンバー、ハルクさん。
「たしかに描かれた絵の内容は、時代的には合っているかも知れないけれど、100年以上前の話だよ。おじいさんたちにとってもすで遠い昔のお話。必ずしもこの絵がレフィカという確証は残念だけれどないよ。けれどね、きっと若い頃に今の僕らと同じように、レフィカ(の物語)に密かに恋心を抱いただろうおじいさんにとっては、間違いなくそれはレフィカなのだろうね。
オスマン時代の優雅で美しい姿をした、ギリシアの初々しくて幸せそうな表情をした娘さん。宗教や民族の違いなんて誰も気にしないで、楽しんで、お互いを尊重して愛し合う生き方があったんだ。それがアダテペ、本当のトルコそのものだと思わないかい?
だから、僕たちも、このプロフィールを僕ら皆の心の中のレフィカというシンボルにして、この村の再生と私たちのオリーブオイルのシンボルにすることにしたんだよ」。

 村の古老たちの様子を、身振りや声音まで作って表情豊かにユーモラスに話しながら、しかしトルコが背負ってきた重い痛みのある歴史や、今の社会構造や経済が作り出した村の寂しい風景に新しい命を吹き込む方法を作り出して行く決意を、村を囲む松の木を燃やす暖炉の火を眺めながら、ハルクさんたちは話してくれました。

おじいさんたちだって、それはレフィカではないとわかっていてなお、そう思いたかっただけかもしれない。
自分たちが、何を失い、今もそれを求めているかをよくわかっていて、また、それはずっとどこかに生きているのだと、自分たちに言い聞かせるために、これはレフィカと言ったのかもしれない。
私の中の冷めた目のリアリストもそんな風に囁きます。
ならばこそ。
「皆が思いを寄せ、その願いの象徴となったあの絵の人はやっぱり、彼女はレフィカ。私にとっても。」
アダテペを訪れると、その度に今もこのアダテペの地に、レフィカは人の心に生きていると私は確信します。
だって、遠くの東の国から来た私にも、まるでモノクロ写真の中のように冷え寂びた村が、光も色彩も鮮やかな場所に変わるのを目の当たりにできたのですから。その変化と、トルコの人たちの本当の心のうちを知るなかで、時代掛かった絵の中の美女レフィカが、生き生きとした一人の女性の香りと体温を持っているのを確かに感じられたのですから。

そして何より、このあたりのオリーブの木が、彼女の存在の生き証人でしょう。
どれも巨樹で、樹齢300年を越えるものも少なくありません。
これら大きなオリーブの樹々は間違いなく、彼女の歌声や笑い声を聞き、その優しさに応えるように枝葉を大きく茂らせ、その葉影に果実を太らせたはず。
春、一面に薫る花の香り、冬、きりりとした緑のジュースのように新鮮な香りのオイルの中には、彼女の思い出、彼女が歌った言葉の記憶も含まれているに違いないのです。
そんな連想をすると、オリーブオイルがトルコから到着するのは単なる原料の入荷ではなく、今オイルづくりに携わっているオリーブオイル生産のグループの人たちの思いはもちろんのこと、トルコの中にある歴史的な痛みとかつてあった美しい調和、また再びそれを目指そうとする希望、レフィカや村の老人たちが願って叶わなかったこと、帰らなかったレフィカの恋人の葛藤が、時間を越えてオイル缶いっぱいに詰まって届いたように思えるのです。

石鹸製造チームのジャックさんやカーンさんたちの、オイルを無駄にしないよう大切に扱う手や真剣な眼差しにも、レフィカやアダテペの村、オイルを作っている人たちへの深い思いが垣間見えます。実は彼女たちも数年前、アダテペ村を訪れた経験があります。オリーブの木と共に生きるアダテペ村の暮らしは、チェンマイの郊外で自然と近く暮らす自らの生活とも意外に多く共通点があると親しみを感じたそうです。またレフィカへも悼みと愛情を持ち、オイルづくりの人たちのパッションには、随分感じるものがあったようなのです。

そんな事もあって、つい「彼女」がやって来た。などと、もってまわった言い方をしてみたくなりました。

西と東の文明の揺籃であったトルコ。
それは様々な文化、思想の人々が行き交い、互いに言葉を交わし、気持を分かち合う事で成り立ってきた、他ではあり得なかった素晴らしい地域だと思います。
小さなアダテペ村にさえその気風はあって、異なる文化、民族の人々が仲良く互いを尊重して暮らしていました。レフィカとその恋人のように。
一度はそれは失われかけましたが、心ある人たちによって受け継がれ、今、改めてその魅力を大きくあらわしはじめています。
そんな矢先、少し前に始まったトルコ国内でのデモ。原因は様々に取り沙汰されていますが、中には、飲酒を禁じたり、言論の自由の制限、路上でキスをした恋人たちが当局に検挙され、そうした行いを禁止する法律の制定に対しての意味もあると聞きます。

トルコはあらゆるものが自在に混淆しながら素晴らしい文化、情の深さを作って来たのです。色々な考えを交わしてこそ、その魅力はいや増すはず。警官に、花束を手渡すなど、中には抗議の形を変えはじめている場所もあると聞きます、今の荒々しい日々を越えて、本当のトルコらしい、多様さを受容し交わしあう大きな空気が戻ってくる事を願わずにはおれません。(Asae Hanaoka)