2018/04/03 17:41
以前は学校や駅前、商店街のおへそような場所には、私たちが思い浮かべるかぎりの、様々なジャンルの本が網羅された、本のよろず屋さんのような「本屋さん」が必ずあるものでした。
そして、そんな本屋さんは、学生にとっては待ち合わせや、気になる異性の姿や趣味をそっと知る場所であったり、お店の人は頼まなくても、お馴染みさんが好きそうな本を取り置いて勧めてくれたり、何気なく手にした本が新しい世界を開いてくれる場所でした。また店内の空気には、店主の考えがどことなし反映されたそれぞれの雰囲気があって、お客さんの側にも贔屓などがあって、商いの場所ながら多様な役割と心地良さがある、人の柔らかな部分がそこはかとなく触れ合う場所であったように思います。
ところが今ではネット書店が隆盛で、地方の商店街の多くがシャッター街になるに連れ、街の書店も激減しているのが現実です。けれどここに、かつての懐かしさを保ちながら、今にふさわしい新しいありようを創出している本屋さんがあります。
それが、熊本の長崎次郎書店です。
長崎次郎書店は、1874年(明治7年)に創業し、建物は国登録有形文化財にもなっている和洋折衷の美しいデザイン、2013年に一旦は閉店をするものの、2014年に再開した実に長く続く書店です。その長い歴史の中には鴎外や漱石ともゆかりがあると言います。
このように書くと、なんだかとても格式があって敷居が高い書店のようですが、さにあらず。私たちのように遠路はるばる訪ねてきてしまう人さえ数知れず、地元でも愛される柔らかな魅力に溢れています。
今回は、スタッフのお一人、本にふさわしいお名前の栞さんに店内を案内していただきながら、お話をうかがいました。
*普通であることの中に忍ばせた遊び
長崎次郎書店に懐しさを感じるのは、建物の雰囲気もさることながら、週刊誌から、児童書、画集、岩波文庫に象徴されるような人文や一般教養の基本として外せないものまでが、満遍なく揃っていることです。かつては教科書なども扱われていたそうですから、まさしく、その基本はザ・町の本屋さんです。
しかし、そこで終わらないのが、この書店の面白さ。そこに、坂口恭平や石牟礼道子など、ローカルであると同時にエッジなものや骨太な選書が加わり(それにしても坂口恭平や石牟礼道子がローカルというのは、熊本の凄いところでしょう!)、郷土愛とともに書店の気骨さえ感じさせる姿勢が感じられます。
最近は、ジャンルを超えた思いがけない組み合わせ、並べ方で本棚を作ってみせる方法が、大手の書店ばかりか図書館でも見かけられるようになりました。しかしここはクラシカルなカテゴリー毎の分類になっていて、実直な棚の並びは、それぞれの個性や趣味を競うお洒落な書店にだんだん慣れてきた目には、むしろとても新鮮で誠実、リアルに感じられます。また、こうしたカテゴリー分類と配列には、本を探しにきた者の集中力を高め、落着いて本を選べるので、どんな世代や好みのお客さまにも寄り添った気配りになっている気がします。
とはいえ、ここまでならば、他にもないわけではありません。
更に更に、この書店らしさを醸しているとしたら、あちらこちらに雑貨コーナーがあったり、小さなギャラリースペースがあること、そして2階が喫茶部になっていることではないでしょうか。
様々な本が作り出す静かで濃密な気配を感じ、インクや紙の匂いを嗅ぎながら書棚の間を逍遥するだけでも、書店を訪れた者は誰もが幸せになってしまうわけですが、そこにもしも本の世界とつながるような雑貨や文房具、読書を楽しくしてくれる小物や秘密の小部屋があったら…。と思うのが本好きならば誰しも一度は抱く願望でしょう。
詩人 日夏耿之介に至っては、書棚に囲まれた浴槽を詩にまで書いて妄想しましたが、そこまで過激でないにしても、集積した本が醸し出す気配につながった空間で、お茶やお菓子を楽しむのはえも言われぬ愉楽のはずです。
本棚の間にはチャーミングな雑貨のコーナーがあって、そこに出会うのは何やら宝探しのよう。人文学の棚の奥にはその時々の展示でその表情を様々に変える隠れ部屋のようなギャラリー。そんな場所が何気なく方々に設けられていて、それぞれ、本の世界とどことなし繋がっているのも、丁寧に場所作り/モノ選びをされているスタッフの方たちの賜物でしょう。
ここに来れば、必要な本は手に入り、思いがけない出会いもありそうと思える長崎次郎書店。自分が高校生の頃にこんな本屋さんがそばにあったならどんなに素敵だったろう!と思ってしまいました。
*地域の書店であること
本の選び方にも感じられた、この書店と地域との繋がりの深さですが、実際にこんなこともありました。
熊本の大地震の後、長崎次郎書店は本は棚から落ちてしまったものの、建物への影響はとても少なく、本震の翌々日から営業を再開。また近くの学校が避難所になったため、書店のスタッフの方達は避難所へ出向いて読み聞かせのボランティア活動に取り組まれたそうです。そんなこともあってか、避難中の気分転換にと書店にやってくる方も結構いらしたと言います。
人が生きるのに食べ物や水が必要なことは言うまでもありませんが、震災のような緊急時の時でさえ、本は心の食物として欠かせないものであり、人の心を支えたことを実感しつつ、そのような時にも足を向けてみようと思える場所づくりを重ねてきたスタッフの皆さんもまたなんとも素敵だと思いました。
お店を出て、改めて素敵な建物の全容やディスプレイ、そしてお店の前を時折通り過ぎる路面電車のチャーミングな光景を眺めていた時、通りすがりのおばあさんが私たちに話しかけてきました。「ここはすごいのよ、この間の大地震でもビクともしなかったの。この辺りは古い町だから、たくさんの建物が壊れてしまったけれど。綺麗な建物でしょう。昔からあるのよ?」と、まるで自分のことのように嬉しそうにお話ししてくれました。
*本と化粧品
さて、嬉しいことにこんな素敵な本屋さんの空間に、eavamも場所をいただくことができたのですが、どうしてだろうか?とそのきっかけを、eavamを見出し、お店に並べてくださった栞さんに聞いて見ました。
栞さんが、以前書店のギャラリーで展示をした日傘のブランド「コシラエル」さんの東京展示会に足を運んだことだったそうです。
そこで、私たちeavamが昨年秋に参加していた展示会「tracing the roots」を紹介され、その中でもちょっと独特だったeavamのブースの展示やパッケージ、器などに惹かれ、一体何なのかとよくよく見て見たら、なんとスキンケアのプロダクトだったという意外性、そしてブランドの背景にある物語に興味を持ったことがきっかけだったと言います。
それにしても、メモ帳やバッグのような雑貨と本ならば、記録や携帯など、なんとなく互いの結びつきが連想できますが、化粧品と本という組み合わせは、なんだか、手術台の上のミシンと傘の出会いのように、いささか思いがけなさすぎる、突飛な組み合わせのようにも思えます。
しかし、あらためて本と化粧品の機能を比べてみると…。
本には、まず情報、また想像力のスイッチ、紙やインクの集合体であるオブジェ、装丁やフォントの美、読む人に物の見方や生き方について変化を与える力、持っているだけで見ているだけで楽しくなるお守り、読み手の人となりが伝わってくるシンボル。などなど、様々な働きがあります。
一方、eavamのスキンケアを同じように考えてみると…。肌を守りいたわる機能、心や居ずまいを美しく変容させる効果、理想の自分や思いがけない自分に変身するきっかけ、素材や製品を作る人や場所の物語や歴史つまり情報、パッケージの美、インテリア性。などの働きがあります。
こうしてみると、どちらも人を他者や外の世界と様々に結ぶ役割を担っていて、何やら、本とeavamのラインナップの働きはずいぶんよく似ている気がします。
大雑把にまとめてしまえば、どちらも文化的で身体的な働きや効果を持っていると言えるかもしれません。
もちろん、化粧品の中には、パッケージを簡略化したり、機能やコスト、効率などを重視したものも多くありますから、eavamという独自のコンセプトを持つスキンケアプロダクトが本によく似ているということかもしれませんが。。
いずれにせよ、スキンケアブランドの展示と思わず、なんだろう?と興味を持って栞さんがeavamに目を止めてくれたように、歴史的な建物という場所の力、また硬軟、ニーズと提案のバランスを考慮して選ばれた本や、思いのこもったディスプレイには書店で働く人たちの気持ちが籠っていて、本という小さなものを人の思いや建物という器が幾重にも包んで魅力的に見せている長崎次郎書店という存在は、eavamのスキンケアラインがその中身の効果のみで成り立っている訳ではないことと、とてもよく似ている気がします。
遠からずこの懐かしくて新しい場所で、eavamのワークショップなどをしてみたいと思ったのでした。
もちろん、半分は本好きのeavamとしては、またあの素敵な本屋さんに行ってみたい!そして今回は水曜日でお休みだった喫茶部で美味しいお茶やケーキを堪能したいという、ちょっと公私混同な下心からなのですが…。